| 若狭の国小浜は、奈良や飛鳥の時代から宮廷の食膳をつかさどる膳臣(かしわでのおみ)の納めた「御食国(みけつくに)」であった。藤原京跡から発見された木簡(現在でいう荷札)には、「若狭国小丹評調塩(わかさのくにおにゅうこおりちょうえん)二斗」、また平城京跡から若狭国遠敷郡多比鮓(わかさのくにおにゅうこおりたいすし)」としるされており、若狭小浜から海産物や塩などが納められていたことがうかがえる。 |
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| 大正初期に鉄道が開通するまで、小浜市の物流は当然ながら船舶によるものであり、町の中心も現在の駅前ではなく、海に近い本町通りであった。その本町通りに面する生玉(いくたま)区は、明治7年の町制改革により「八百屋町」「本町」「川縁町」の合計117戸を改編した地区である。 |
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| 「八百屋町」は、その字が示すとおり昔から野菜や果物を扱う店があったとみえて、古くは「青屋町(あおやちょう)」と呼ばれていたらしい。いつの頃か、「八百屋町」に名前が変わったが、相変わらず「あおやちょう」と呼ばれ続け、次第に訛り、「あわいちょう」になったものと考えられている。 |
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| 当時小浜で一番の繁華街であった生玉区は火事も多かったが、明治7年には「あわ焼火事」と名付けられた不思議な大火があった。本町の大半を焼いた火が「八百屋町」を飲み込む勢いで迫ったが、なぜか町の入り口で消えてしまったという。見るとそこには地蔵堂があり、一体のお地蔵さんが安置されていたため、町衆はその後、日除けの地蔵として手厚く世話をし、信仰したとのことである。「あわやあわいちょうが・・・」の火事であったということか。 |