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| 小 浜 市 |
| 小浜市大谷に「矢袋」という小字がある。地元では「ヤブロ」と呼んでいる。いつの時代からそう呼ばれたのかは不明であるが、史実に近い伝承によれば、遥か源平時代に遡ると考えられる平家物語の巻4鵺(ぬえ)に出てくるのである。 |
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| 『仁平の頃(1151〜1153)とも応保の頃(1161〜1162)ともある。内裏(皇居)の屋根に夜になると怪しげなものが現れて、この世のものとも思われぬ気味の悪い奇妙な泣き声をあげた。帝は泣き声におびえ悩まされ眠ることができなかった。公卿達は相談をして、高僧に命じ秘法の祈祷などをさせたが効き目がなかった。そこで源氏の大将で弓矢の名人である源三位(げんさんみ)頼政が選ばれ退治を命じられた。頼政はしげとうの弓と矢を待って、家来の猪(い)の早太を唯一1人連れて御殿に参上し夜になるのを待った。午前2時ごろになると東の方から真黒い雲が現れ、生暖かい風と共に内裏の屋根を覆った。頼政は弓を尖り矢をつがえ、黒い雲に向け、南無八幡大菩薩と念じながら矢を放った。手応えがあって見事命中し、何者かが物凄い泣き声を出して屋根からどっと転がり落ちた。家来の猪の早太は、すばやく駆けよって刀で9回指して殺した。御殿の人々が火を灯して見ると、頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎のような鵺という怪獣であった。頼政の鵺を射た矢は、大谷の矢袋で産したといわれ、それ以来ここを「矢袋」というようになったという。』 |
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| この話からも、この地は良質の矢竹の産地であったことが伺える、たくさんの矢竹を袋のような形の壺胡縁(つぼやなぐい(矢入れ))で運んだことであろう。鵺退治の頼政は褒美に稲富浦を拝領し、これより矢代とあらためられた。これは現在の小浜市「矢代」のことである。現在も頼政居館跡といわれる所が大谷・本保の境界にあり、「源三位建法山頼圓公神儀」と刻された記念碑が千年の歴史を秘めながら、矢袋の方を向き立っている。 |
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| 記念碑 |
小浜市大谷集落と本保集落の 境界の道路沿いにある石碑 |
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