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おおい町(名田庄)

八ヶ峰
知井坂
Hachigamine
Chiisaka


はちがみね ちいさか


八ヶ峰はその名の通り、山頂から望めば、能登・加賀・越前・近江・丹波・丹後・山城・但馬(別説‥越前・近江・丹波・丹後・山城・河内・摂津・若狭)の八ヶ国が見えるということから名付けられたようだ。
この八ヶ峰に続く尾根を越えて、古くから街道が続いていた。その1つ知井坂は、昭和初期までは行き交う人も多く、栄えていた。現に、明治34年、京都陸軍の輜重(大砲や武器弾薬・食料・衣料等の運搬監視部隊)が演習のため、大砲を馬に引かせて越えたとされている。演習をする部隊なので、何台もの荷車と兵隊100人は下らなかったであろう。また、昔弘法大師が知井坂を京都側から越えられた時、喉を潤わせるようにと杖をついて水を湧かされたとの言い伝えがあり、今も峠近くには45×60×30pの石をくりぬいて作られた手水桶が置かれている。
この知井坂は、血坂ともいわれる。古文書(『若狭郡懸誌』)には、「この山は、下中郡堂本村の南にあって、高く険しい、誠に難儀な坂道である。婦人や少女がその坂を越える時は、苦しさに耐え切れず泣き出し、普通の人でも必ず涙を落とすほどだ。これを紅涙、または血涙というが、このような難儀な坂道なので血坂というようになった。」(本文‥在下名中郡堂本村の南、斬山高嶮実艱難ノ坂。夫人少女越此坂時、不堪苦而落涙、凡人至苦則必落涙、是請紅涙又請血涙、今略血涙ノ涙而称血坂云)とあり、血の涙を流さねばならぬ程の苦労をしなければ通れなかったという。
もう一説は、鎌倉時代、時の幕府の重臣、朝比奈三郎率いる朝比奈軍と、これを討とうとする北条軍の戦いが知井坂を下った八原で起こり、北条軍は朝比奈軍を知井坂へ追い詰めたが、両群の死者はおびただしく、流れた血は坂を染め、若狭側の谷も染めたという説である。その若狭側の谷が染ヶ谷である。


染ヶ谷近辺


ひとくちメモ
名田庄村から小浜市にかけての南川流域約10ヶ所で、8月24日(一部、16日または23日)の夜、「松あげ」が行われる。高い柱の上にモジといわれる漏斗状の籠をつけ、これに松明を投げ入れて燃やす壮観な行事で、愛宕神社に火を捧げて火防を祈る信仰神事である。






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