| 「納田終」という地名の由来について、確かな文献や書籍は残っていない。ただし、漢字をそのまま解釈すると、「納」は「納める」、「田」は「田んぼ(年貢である米)」、「終」は「終わり」である。つまり、年貢である米を納めることができる最終の地であったのではないかと思われる。この地の先(奥地)は田んぼもなかったのかもしれないし、あっても良質の米(年貢になるような米)が収穫できなかったのかもしれない。 |
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由来については以上のようなことしか分からないので、この地に残る陰陽道ゆかりの史跡についていくつか紹介しよう。 納田終白矢(しろや)の、堂の谷の入り口の山裾に、安部三卿が眠る墓(県指定史跡)がある。両側に五輪の塔を置いて、真ん中に自然石で作られた墓碑が立つ。苔むした碑には、従二位阿部有宣(ゆうせん)、同有春(ゆうしゅん)、同有修(ゆうしゅう)の名とそれぞれの没年が刻まれ、遠い昔を今に語りかけてくる。 |
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| この墓は、遠く永正(1504〜1520)から天正(1573〜1591)にかけて、この地で亡くなった阿部親子三代の墓であり、嘉永6年(1854)天皇の命によって修築されたらしい記録が残っている。 |
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| 一方、白矢集落の右手(北面)山裾一帯には、土御門(つちみかど)(阿部)家居城跡や、泰山府君(たいざんふくん)社(後に加茂神社合祀)社殿跡がある。眺望、日当たり共に最高の地勢環境で、いかにも支配者の居城というにふさわしい。応仁の乱で荒廃した京の都を逃れて、この地に移った土御門阿部一族が、朝廷との親密な連絡を取りながら、親子三代90年の間ここに天文道場を開き、陰陽道を究め天文暦学を通して日本の暦作りに専念したあかしを残している。 |