| 南川の断層崖に沿って東西に広がり、集落中央に大同2年(807)に、創建(「名田庄村誌」および「下集落誌」)されたとされる苅田比売(かりたひめ)神社がある。この名の由来は、小倉、知見新助家の古文書に述べられている知見出雲守および東光院にかかる一連の伝えと年代的に合うものがあるので、その関連において伝えるままに記す。 |
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| 時は宝亀9年(778)、悲運の帝、淳仁天皇の皇子であった苅田丸は、光仁天皇に父君淳仁天皇の神廟建築を願い出て、淡路に淡路大明神を建立し厚く祭祀した。その後、若狭に渡り、この地に住む苅田丸の育ての親、高橋仁士(ひとし)とともに、母君苅田姫の神廟を建築し、天皇に言上した。天皇は直ちに勅使をつかわされ、ご直筆の法華経一部と正一位苅田姫大明神のご神名を授けられたという。 |
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| これが大同2年(807)とすれば、苅田丸が神廟建築を願い出た宝亀9年(778)から29年後になり、その年月は実状と合致するのではなかろうか。 |
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なお一説には、苅田姫大明神は元小倉地籍であったとか、「下」の苅田姫神社はその分神であるなど、諸説があるが、どれが本当なのかはっきりしない。 ちなみに記すとすれば、現在の神社本殿破風の懸魚(けんぎょ)に17弁の菊紋が刻まれていて、天皇家とのゆかりをささやかれたこともある。 |