| 「成出」は、三方湖々岸の段丘の崖下に一列に並んだ12戸の家から成る。家の前には水田が広がり、その昔には湖岸に小舟を停泊させた静かな水郷風景があったことを想像させる集落である。成出を背に湖を眺めると、右前方に小さく20戸ほどの家々が見える。「生倉」である。この2つの村が、江戸時代初期には湖の底だったとは想像も出来ない。 |
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| 寛文2年(1662)に起きた大地震(京畿近国大地震)で、この地は大きな地殻変動と想像を絶する災害に見舞われ、川と湖は村々を覆い隠し、田畑は水底に消えた。 |
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| 藩主は行方久兵衛(なめかたきゅうべえ)を奉行として、新田の開発を命じた。しかし、この工事は、幾多の難工にぶつかるものであった。苦しい立場に立たされた久兵衛は、宇波西(うわせ)神社に毎夜参拝し、祈願を惜しまなかったという。ご普請中止の評議が出るなかで、ある日、神前でまどろむ久兵衛に、神の声が聞こえた。その仰せのとおり工事を再開すると、不思議なことに岩盤を切り開くことができ、工事はどんどん進展した。そして大地震以来氾濫していた濁水は一気に久々子へ流れ出し、新田が誕生したのである。 |
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当時の現場の状況と行方の苦しみを察するこんな歌がある。
「掘りかけて 通らぬ水のうらみこそ 底行方のしわざなりけり」
「浦見坂横田きつねにだまされて 掘るに掘られぬ底のなめかた」
こうして誕生した新田は90町歩で、新たに生まれた集落が「成出」と「生倉」となった。「田地はいくらでも 成りで出ん」これが集落の名の由来であるという。
参考資料「三方五湖の周辺」
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