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| 敦 賀 市 |
| かつて日本海は交流の海であった。大陸の先進文化は、朝鮮半島を経由して日本海に運ばれてくる以外に、大陸から南下する海流と北上する対馬海流とが合流して形成する海の回廊ともいうべき流入コースが別にあったのである。若狭湾全体が流入口になっていたことが、海岸に点在するハングルの書かれた様々な漂着物に端的に示されている。 |
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| 現在、敦賀商工会議所から港に向かって相生商店街がのびているが、ここはかつて「唐仁橋町」と呼ばれていた。名の由来は2説ある。1つは、中世、泉州堺から来た唐円という唐物商が町の川に橋を架けたので、「唐円の橋」が転化して「唐仁橋」と呼ばれるようになったという説(「敦賀志」より)。もう1つは、「橋」は「端」に通じ、はずれのことであり、往古はこのあたりに船着場があり、唐人が住んでいたのでその名が残ったという説(「敦賀雑記」より)である。船着場があり唐人(外国人)が住んでいたとする説も荒唐無稽な話ではない。渡来してきた人、物、情報は、敦賀経由で都に運ばれた。都からは、絹織物等大陸では手に入らない物が運ばれ、交易ルートが築かれていった。海は世界に通ずる道筋であり、渡来人たちによってもたらされた文物はその後の日本文化に大きな影響を与えた。若狭湾、敦賀、唐仁橋町は、大陸文化の玄関口だったのである。 |
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| 時代は下がって江戸時代のこの町は、旅籠屋、道具屋、菓子屋等が軒を連ねた繁華街であっという。元禄2年(1689)、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の最後に来敦した折、1日目に泊まった出雲屋弥市郎の宿屋も唐仁橋長にあった。 |
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| 出雲屋の記念碑 |
| 相生町商店街の中程に立つ「芭蕉翁逗留の宿出雲屋」の記念碑 |
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