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ところで、若狭国の「わかさ」とは一体どんな意味なのだろう?越前国は「越の国」であり、都に近い傾から「越前、越中、越後」と呼ばれていたわけだが、「わかさ」の由来は、天皇の膳部(食事部門)を司る膳臣余磯が履中天皇に御酒を差し上げたところ、その盃に桜の花びらが落ちた。
喜んだ天皇はこれは「天下太平の印」だと、余磯に「稚桜部臣」という称号を与えた。この「わかさくらべのおみ」の本拠地がこのあたりだったので、「若狭」になったというのだ。膳氏といえば、聖徳太子の「最後の女性」だった膳妃もこの氏の出身らしい。いわば若狭国始まって以来の豪族というわけだ。
その膳臣一族の墓ではないかといわれているのが、若狭町上中地区にある古墳群だ。大型の前方後円墳がまとまっているところで、日笠古墳群、天徳寺古墳群、脇袋古墳群などがある。これらは畿内(大和地方)にも見劣りしない前方後円墳で、中でも独立している向山1号墳は本州で最も古い横穴式石室をもつ。
そもそも「膳」という言葉は、天皇の食卓に様々な物産を供するところから出た言葉だが、若狭の海産物が古代から都に「調」として運ばれていたことは、奈良の飛鳥板蓋宮の発掘調査でも証明されている。若狭の三方地方から鯛の煮物が送られてきたことを記した木簡(木札)が発見されたのである。
その木簡には「若狭評(郡)調、田比(鯛)煮」と確かに記されていた。
後の時代も、若狭国は都(京都)への新鮮な魚の供給源となる。その運搬ルートになったのが有名な「鯖街道」だ。
若狭湾で朝、小浜に陸揚げされたサバなどの新鮮な魚介類を塩づけにしたり、さっと焼いたりして、それを人足の待機する熊川宿まで運ぶ。そして、40キロから6キロもあるという重い荷をかついだ人足は、一昼夜で18里の道を突っ走り、京の市場へ届けるのである。
若狭では「京は遠ても十八里」という言葉があったという。当時は「鯖街道」という名称はなかった。若狭街道というのが正しいようだが、それにしても生鮮魚介類を京の市場まで運ぶのは、古代の膳臣時代からの伝統かもしれない。
熊川宿が「ターミナル駅」として栄えたのは戦国時代末期、浅野長政(豊臣秀吉の義弟)が小浜に封じられ、この地の重要性に気が付いて諸役免除の特権を与えられたことが、繁栄の始まりであった。
もっとも古くから開けた地ではあり、戦国武将としても歌人としても有名な細川幽斎の妻、麝香はこの地の豪族沼田氏の出である。細川ガラシャ夫人(明智 光秀の娘)の夫、細川忠興はこの幽斎・麝香の長男だった。
江戸時代初期に河村瑞賢が西回り航路を開き、北前船が北陸の物産を大量に下関、瀬戸内海経由で京、大阪に運ぶようになってから、熊川宿の繁栄はややかげりを見せるようにはなるのだが、今と違って冷凍設備のない北前船では運べない生のサバなどについては、相変わらず貴重な道であった。
現在、熊川宿は史跡として整備が進み、見学者の来訪を待っている。


人工の構築物とは違って、自然の巧みに目を向けると、まず紹介しなければいけないのが三方五湖だろう。
表情の違う五つの湖が、山際から海際にかけて連結した形で広がる風景はユニークで、また美しくもある。
三方五湖を見るには、有料道路レインボーラインを進み、リフトやケーブルカーで梅丈岳(標高約400メートル)の頂上に登って上から全体像を眺めるのもいいし、遊覧船に乗って下から湖めぐりをするのもいい。若狭町営の宿泊施設である「水月花」からは、毎朝朝食付きのクルーズ船が出る。私も体験したが、湖上でとる朝食はなかなか、おつなものである。
この三方五湖周辺には縄文時代からの集落があり、その全容は若狭三方縄文博物館でチェックすることもできる。

さて、江戸時代になって若狭と越前の一部を統轄する城下町となったのが、小浜である。小浜は、江戸時代は酒井家11万石の城下町であったのだが、実は それ以前、古代から当時の都であった平城京(奈良)へのルートがあったらしく、「海のある奈良」と呼ばれるほど、豊富な寺院や仏像がある。
仏像の白眉は羽賀寺の十一面観音であり、寺院建築の白眉は明通寺であろう。このほかにも庭園の見事な萬徳寺や薬師如来で有名な多田寺など、古刹・名刹 が多数点在しているが、奈良との深いかかわりを示すのが神宮寺だ。
奈良では毎年3月13日、東大寺で「お水取り」という行事があるが、実はその東大寺で水を汲む「若狭井」という井戸の水源は、この神宮寺の管理する「鵜の瀬」というところから送られている、ということになっている。そのため神宮寺では「お水取り」に先立って、毎年3月2日に「お水送り」を鵜の瀬で行う。
ところで神宮寺という名称の寺は、かつて全国各地にあった。中世以降、「神仏混淆」で仏と神は一つということになり、明治に神仏分離令が出るまでは大 寺院には付属の神社が、そして大きな神社には神宮寺(別当寺)がつきものだったのである。
この近くにある若狭彦神社は、かつて神宮寺と一体だった。日本人は今の風景が当たり前だと思っているが、歴史は刻々と動いているのだ。ちなみにこの寺 では、「若狭」の語源を朝鮮語のワカソ(往来の意)だと伝えている。
小浜からは全国有数の奇岩・怪石の名勝である蘇洞門めぐりの遊覧船も出るし、漁港であるからおいしい魚介類を食することもできる。人魚の肉を食べたが ゆえに800年もの寿命を保ったという八百比丘尼の終えんの地も、この小浜なのである(市内に入定洞窟がある)。
朝市に出ているサバを一尾丸ごと焼いた「浜焼きサバ」を仲間と分けあって、寺社めぐり・美味めぐりに出るのも、若狭路の旅の醍醐味かもしれない。
